福島で暮らすということ

小川あきら です。

大震災から、1年9ヶ月が立ちました。

「もう1年9ヶ月」と思う人、「まだ1年9ヶ月」と思う人、

感じ方はいろいろあると思いますが、

とにかく大事にしたいのは、被災者の皆さんの想いはどうなんだろう、ということです。

できるだけ当事者の生の声を聞いて、その想いを感じたい。

今日は、高崎で開催された、福島に住む黒田節子さんの講演会に出席させていただきました。

黒田さんは、福島に住む一人として、「原発や放射能にはいろいろな問題があり、

いろんな意見があるけれども、優先順位があるとしたら、とにかく子どもの避難が最優先」

と主張し、自分たちでできることを体当たりに活動している方です。

その言葉には、重い現実のなかで生きている福島の人たちの想いが、

たくさんつまっています。

同じように、福島に住むある女性の想いは伝わる詩を黒田さんが紹介してくれました。

フェイスブックなどでも、話題を読んでいる詩です。

『私がふくしまに暮らすということ』〈吉田麻里香さんのノート〉

ふくしまで暮らす、ということ。

わたしが、ふくしまで暮らすということ。

わたしにとって、ふくしまで暮らすということ。

たとえば、朝起きて窓を開けて深呼吸する習慣がなくなったこと。

たとえば、洗濯物を外に干せないということ。

たとえば、庭の畑で採れた野菜を捨てるということ。

たとえば、私が何も言わなくても線量計とマスクを身につけて外出する娘の姿に胸がチクっと痛むということ。

たとえば、この真っ白な雪に触れられないということ。

たとえば、「がんばろう福島」のスローガンに時々微かな苛立ちを感じるということ。

たとえば、いつのまにか呼吸が浅くなっているということ。

たとえば、福島に住んでることを誰かに話すとき、「でもうちはまだ線量が低いから…」ときかれてもいないのに説明してしまうこと。

たとえば、ふくしまには福島とFUKUSHIMAがある、と感じること。

たとえば、ふくしまに「とどまれ」と言われると「人の命をなんだと思ってるんだ!」と言いたくなり、「避難しろ」と言われると「そう簡単に言うな!こっちにも事情があるんだ!」と言いたくなってしまうこと。

たとえば、6歳の娘が将来結婚できるかが今から心配になってしまうこと。

たとえば、ふくしまに住んでいるという選択の責任を放棄したくなること。

たとえば、わたしたちの日常が誰かの犠牲と努力によって保たれている薄氷のような「安全」の上に成り立っているという当たり前の現実を、毎朝腹の底から理解するということ。

たとえば、明日にはこの家を遠く離れるかもしれない、と毎晩考えること。

たとえば、それでも明日もこの家で暮らせますように、と毎晩祈ること。

とにかく、娘の健康と幸せを祈ること。

あの黒煙が脳裏から離れないこと。

それでも、毎日をそれなりに楽しく暮らしていることを、誰かにわかってほしいということ。

毎日、怒ること。

毎日、祈ること。